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「オールド パー」は、イギリスのスコッチウィスキーで輸入元は、ジャーディンワインズ アンド スピリッツ
株式会社である。オールド パーは今や日本で一番愛され飲まれ世界中にその名を轟かせようとしているデラッ
クス スコッチ ウィスキーです。このオールド パーと言う名は、長生きパー爺さんの名前より名づけられま
した。

そのウィスキーボトルのラベルに描かれている、爺さんの名前は「トーマス・パー」と言い画家のルーベンス
が描いた肖像画も残っている。

500年前、当時のイギリスは書類的な管理がすすんでおり、農村の借地契約なども書面にて契約していた。
そのため、当時の記録から実存の人物であったことは明らかである。

さて、パー爺さんは、152才まで生き、その墓石はロンドンのウェストミンスター寺院のポエットコーナー
にシェークスピアなどそうそうたる詩人、文化人、哲学者と共にあります。

パー爺さん。その名はMR.THOMAS PARR

今を遡ること500年前、1483年2月、イングランドの小さな村WINNINGTON(ウィニングトン)
で生まれました。その小さな村ウィニングトンはロンドンの西北西、リバプールの南シュルスベリーから西へ
13Km程離れたアルバールブリー教区の一部ウェルシュとの国境より500mも離れていない所にあります。

パー爺さんの若い頃の事はあまり知られていません。彼は17才の頃、家より5Km程離れたところにある
ロートン城の近くに奉公に出ました。そして、35才の時(1518)父親の死に際して父にかわって、農耕
と母の世話の為に家に戻りました。この間イングランドの王はヨーク朝のエドワード4世からエドワード5世、
リチャード3世、そして、チューダー朝のヘンリー7、ヘンリー8世と移っています。

その当時の日本はというと室町時代。あの銀閣寺を建て東山文化を興した足利第8代将軍 義政の執政です。
イングランドも日本も戦乱の時代でした。

パー爺さんが152才まで長生きしたと言う事実に対して疑問を持たれる人が随分といます。確かに教区ごと
の住民登録が始まったのが1540年、それも文盲の多かった当時のことを正式に公の書類上で証明するのは
不可能とも言えます。ところがパー爺さんの場合、別な書類で証明できるのです。というのはパー家は小作農
であり、ある決った期間ごとに借地の契約更新をしているのです。その契約書から出生を辿れるのです。

父親のなくなった1518年、彼が35才の時に父名義の借地期間は4年残っていました。彼が39才の時
(1522年)、彼名義による最初の借地契約が地主LWEIS PORTERとの間で21年間という約束
で行なわれています。彼の日課は、農業の合間に、近くにあるブリッデン丘陵とロングマウンテンの山歩き
だったようです。

さて、パー爺さんが平穏な生活を送っている間に、日本では戦国史には忘れることのできない3人の武将が
生まれています。1534年、織田信長。1536年、豊臣秀吉。1542年、徳川家康です。

パー爺さんが1543年(徳川家康の生まれた翌年)60才の時、2度目の借地更新をしています。
地主はすでに代替わりをしていて、LWEIS PORTERの息子JOHN PORTERになっています。
その後20年間、平穏な日々が続きます。
イングランドの王はヘンリー8世の時代も終りエドワード6世、クイーンメアリー、クイーンエリザベス1世
の時代にはいります。

バー爺さんが80才になった1563年から身の上が騒がしくなってきます。
80才になったバー爺さんは、ジョンテーラーの娘ジェーンテーラーと結婚します。この時が初婚です。
そして子供(ジョン)をもうけますが、息子のジョンは生後10週間、娘ジョアンは生後3週間で他界して
しまいました。
翌年1564年、パー爺さん81才の時、3度目の借地の更新を前回と同様21年間でJOHNの息子ジョン
ポーターから、続いて1585年パー爺さん102才の時、4度目の更新をJHONの息子ヒューポーター
から21年間行なっています。

日本の歴史と対比してみましょう。

この間、日本は足利8代目将軍 義政からすでに8代かわり、15代将軍 義昭になっています。
1573年 織田信長との対立より室町幕府は滅亡しました。安土城を築いて安土桃山文化の基礎を固め
キリシタン文化をも摂取、統一攻権を信長が進めましたが、本能寺の変(1582年)で明智光秀にうたれ、
その光秀も羽柴秀吉に敗れ、豊臣秀吉の天下統一(1590年)へと移っています。

話をバー爺さんに戻します。

1588年パー爺さん105才の時、不名誉な話しではあるが信じられないことが起こります。たぐい希なる
美人といわれた、キャサリン ミルトンとの間に不義の子をもうけてしまい、その当時のこの地方の習慣に従
いアルバーバリー教会の公衆の面前で、白衣をまといざんげを強いられたのです。

さらに、記録をたどっていきます。

1595年パー爺さん112才の時、妻ジェーンが亡くなってしまいます。
そして、その10年後、122才の時、近くの村 モントゴメリーシャーのジョン リッドの娘、アンソニー 
エイダの未亡人ジェーンと再婚。翌年、1606年 123才の時5度目で最後の借地更新をしています。
この時の地主は、次の世代ヒューポーターの息子ジョンポーターです。そして、この時の契約期間は彼が死ぬ
までか、あるいは50年間かという取り決めになっています。

この間、イングランドの王は独身で過ごしたクイーン エリザベス1世が亡くなり、スコットランドとイング
ランドの両王家の合体となり、イングランド王ジェームズ4世即ちスコットランド王 ジェームズ4世に移り、
パー爺さんにとっては10代目の王 チャールズ1世の時代に入っています。
そして日本と言えば、豊臣の時代も終り、関ケ原の戦いで徳川家による江戸幕府へと移っていきました。

記録によれば、パー爺さんは130才になっても脱穀をしていると、その地方で有名だったようです。

 1635年の春、パー爺さん152才の運命の年となります。

アロンデールの伯爵、MR.トーマス ハワードがシャウスブリーの近くにある彼の領地を訪れた際、この驚く
べき長寿パー爺さんの噂を耳にし、パー爺さんを自分の保護下に置こうと決めるのです。そしてパー爺さんを
ロンドンに連れて行きチャールズ1世に会わせようと思いたったのです。
アロンデール候は、パー爺さんの為に出来る限り安全に、又楽しい旅にと馬はもちろん、寝台車から道化師
をも手配したのです。一行はウィニングトンを出て、アロンデール候の領地ウィムへ立ち寄りロンドンまで、
3週間の旅を続けました。

この旅はスムーズにいった訳ではありません。パー爺さんを一目見ようと多くの群衆が集まり、コウベントリ
ー地方では旅を諦めざるをえないかと思われる位になったようです。何とかロンドンに無事に着き、それから
バー爺さんの生活はガラリと変りました。名士に相応した身なりを整え、髪も調髪、いくつかのカツラさえ用
意されました。食事も何もかもが贅沢になってしまったのです。

ロンドンに行ってから僅かの期間にパー爺さんの名声は高まり、数多くの商品の宣伝に使われました。

トーマス パーの肖像画は数多く描かれています。その中で最も有名なのが、当時、オランダ大使として英国
官廷に出入りしていたSir.ピーター ポール ルーベンスによるもの。原画は、1878年に数十万ポンドで
競売に落ちましたが、現在は米国ミズーリ州のカンサスシティー、ウィリアムロックヒル ネルソン コレクシ
ョンにあります。

他に有名な物は、パーの生涯最後数カ月にVan Dyckによって描かれた物で、チャールズ1世のコレクション
にありましたが、バリに送られ(チャールズ1世の依頼であったと思われる)、後にロートン城のレディー 
シャーロッテ リュスターに贈られ、現在はドレスデンギャラリーにあります。

作者不明でホーンソーストの学校で描かれた物がオックスフォードのアーチモラルに保有されていて、複製が
ナショナル ポートレート ギャラリーにあります。またドブソンによって描かれた肖像は珍しく年老いた盲と
して描かれています。

当時の記録によるとパーの名声は、彼を長寿と幸福の象徴に祭り上げたようです。
幸運のメダルが作られ、それにはオールド・トーマス・パー152才と彫られていました。このメダルは旅行
の安全を祈って贈られるセント・クリストファーのメダルと同様に便われました。見本は現在、大英博物館に
あります。

その年の9月、バー爺さんはチャールズ1世に拝謁しましたが、11月14日、ロンドンのアロンデール候の
館で長寿の幕を閉じたのです。
死後、彼の体はDR.HERVEYにより解剖されました。そして、その原因は、生活環境のあまりの急激な
変化によるものと記されています。

もし、パー爺さんが空気の澄んだ、そして陽光満ち溢れる、あのウィニングトン村にずっと居たならば・・。


チャールズ1世は彼の死を心から悼みウェストミンスター寺院に11月15日に埋葬させたのです。
碑文には、こう書かれています。

サロップ地方のトーマス パー。1483年に生まれる。10代の王の時代を生きる。

すなわち、 K.EDW.W EDW.X CHR.V HEN.Z HEN.[ EDW.Y Q.AN Q.ELIZ K.JA.T CHARLES.T

享年152才。1635年11月15日ここに埋葬される。

 と・・・


日本で言うと、室町時代の足利義政からの足利8将軍、信長、秀吉、江戸時代の家康、秀忠、家光、
計13代の将軍の時代を生き抜いたことになります。

資料によれば、パー爺さんの子孫も長生きしているようです。
息子113才、孫109才、曾孫ロバートパー124才、同じくジョーン127才、同じくキャサリン パー
103才、というようにです。

長生きパー爺さん。そして美味しいお酒オールドパー。みなさんも一度このポトルをじっくりと見てください。
バー爺さんが必ず微笑みかけてきます。みなさんが、今以上にこの長生きパー爺さんを愛してくださることを
願い、MR.THOMAS PARRの年譜説明を終ります。

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